引退後のセカンドキャリアと起業家としての土井健史

引退後のセカンドキャリアと起業家としての土井健史

こんにちは土井(@takeshidoi73)です。
柔道を引退して、体重も90kg近く増えすでに73kg級で戦っていた自分の姿はありません。
しかし、幸せな家族と友人、最高の仕事をして僕は柔道家として戦ってきた日々よりも充実しています。

僕のことを知っている人も知らない人も柔道界だけでなくアスリートの中ではたくさんいますが、そこそこの柔道人生だったのかなと客観的に見えます。
ただ、柔道家としては世界の舞台で戦わせていただいたものの、真の一流選手にはなれなかったなというのが僕の人生での一番の後悔です。

なぜ、全てを賭けて柔道と向き合えなかったのか?
あの時、こうしていれば・・・
なぜ僕は東京に出て勝負をかけなかったのか?

なんて山ほどありますが、個人的には大阪に残ってダイコロ株式会社に所属させてもらい、後に三重県の国体選手として柔道をしていなかったら、”起業家 土井 健史”は無かったのかななんて思います。

「あれ?起業家?」と思いの読者の皆様もおられると思います。
実は今、大阪市都島区で工務店を経営しています。

興味のある方は一度見てください。
もちろん一代目ですし、ゼロから全てを作りました。

話は戻りますが、今回は今後の執筆活動も含め、なぜ起業したのか?という話や社会人になるまでの経緯について、僕のセカンドキャリアについてお話ししたいと思います。

ある日、柔道引退後のセカンドキャリアについて考えた

23歳のある日、僕は柔道をしてどれくらい稼げるのか?いつになったら昔憧れていたようなTVに出てる野村先輩や篠原先生みたいになれるのか?なんて考えた日がありました。

結論から言うと、柔道という競技は所属している会社で収入や給料は変わるので、圧倒的な阿部兄弟のようなスター選手でない限り、大学卒業後に結果を残しても給与と言った形で受けとる賞金や給料では裕福にはなれないんですね。

そう、僕は柔道で有名になりたい、強くなりたい、オリンピックで優勝したいというよりは、お金持ちになりたいという欲のほうが強かったんです。

また、当時の73kg級は大野将平先輩、中矢力さん、秋本啓之さん、橋本壮市さん、西山雄希さん、粟野靖浩さん、他にも強い選手がいて、まずは東京グランドスラムに出場する権利から争う必要があるんですね。

24歳の年に今年グランドスラム東京に出れなかったら引退すると決めて、4月からスタートして、結果的にその年はグランドスラムに出て2位になった年だったんですね。
もちろん人も寄ってきて海外遠征にも選ばれ充実した柔道人生を歩ませてもらったのですが、それでも僕の給料はサラリーマンくらいしかなくて本当に嫌だったのを今も覚えています。

その後は、柔道を一度引退して何をするかもわからない状況で三重県に拾ってもらい2年のブランクを経て復帰して、2019年に全日本強化に復帰したんですが、結局はコロナで先が見えなくなりましたね

その時から、セカンドキャリアが頭によぎりました。
コロナで練習もできないし、トレーニングしかできなくて、三重県と契約が終わる1年前の28歳になる僕がどうやって世界に出れるんだ?と現実を見て、このままでは自分の人生が危ないとも感じました。

それと同時に引退後は、ITの業界に行こうと考え、お世話になっている先輩からたくさんのことを教わりました。
もちろん、僕はパソコンの起動の仕方からわからない状態でしたけどね。w

28歳のこの時まで、macとwindowsの違いもわからなかったし、エクセルとワード、パワポ、Adobe関連のソフト、全部含め何それ?という感じでした。

記事の書き方も全くわからなかった僕が、自分で調べて、全て一からパソコンを触り始めました。
今思えば、これが僕のセカンドキャリアに向けた第一歩かもしれませんね。

柔道をやめてから、過去を捨て、普通の人になる

その後、一般社会の1人の社会人として就職活動もしました。
ITの広告代理店に面接に受けて受かったり、大手企業に応募して落ちたり、某有名な不動産ベンチャー企業も受けたり、よく分からんことをしてましたね。

この時に初めてスーツを着て会社に回って、柔道家ではなく一社会人として面接を受けていたので、本当に普通のサラリーマンって大変だなとか生意気なことを考えていました。
スーツは暑いし、面接で聞かれたことは意味わからんし、SPIの試験もやったことないので、なんやねんそれ、って感じでした。

結果的に僕は選んだのは、工務店で職人として修行すること。
頭いかれてるんじゃないかな?と今も思いますし、この時は柔道の友人、地元の友人、全ての人と会うのをやめていました。

今思えば、元柔道家としての自分がいるため、恥ずかしかったのかもしれません
ですが、結果的にその選択が正しかったことを今証明しています。

独立、会社経営までの道のり

職人として難波にある工務店、株式会社アート建装で修行させてもらい、いろんな現場を経験しました。
社長の矢田社長には本当にお世話になり、ど素人の僕を従業員の若い子のように可愛がってもらい、この際に会社で行く飲み会、スナックが本当に楽しいんだなと感じました。
株式会社アート建装では、店舗のリフォームから、屋根の工事、電気工事、水道工事、解体工事に従事させてもらい、この時に電気工事士2級の資格を取得しました。

また、生活リズム的には朝6時台の電車に乗って、移動時間は電気工事士の勉強や現場の本を読んで、7:30には集合して材料や工具を積んで、リフォーム工事を職人として元柔道全日本強化選手が行なっていました。

帰りはいつも21時台の電車に乗って帰り、移動時間に勉強をして帰宅後は夕食後、死んだように眠っていましたが、それでも僕は「起業して、社長になる、金持ちになる」その一心で続けているので毎日が楽しかった日々でした。

ちなみに、現場工事をしている時にも僕のことを知っている人とは一度も出会いませんでした。

また、独立して起業するには僕自身の営業スキルが必須だと考えていたので、本町に本社がある株式会社iclickで1人の営業としてリフォームの営業をさせていただきました。
この会社で営業したことが、今の僕の営業の基礎となっており、本当にすごい会社だと今も思います。

ちなみに、Iclickへ行く際はアート建装の職人の方々、社長の矢田社長から頑張れよ!と暖かく見送ってもらいました。
今も出ていく人間にこんな優しくしてくれる人たちはいないだろうなと、改めて職人という世界が好きになる瞬間でしたね。

その後、営業活動ではもちろん営業なんてことはしたことなかったので、インターホンを初めて押して、お客様が出てきた際に何も喋れなかったことは今も忘れませんし、その際に22歳の女の子に家に入れと背中を押されたことは今も忘れません。w
余談ですが、押された際に体幹が強すぎてびくともしなかったようです。

また、電話営業では、“もしもし、お世話になります私、”なんてことを言っていましたね!
iclickで僕は全ての営業基礎を学び、素晴らしい人たちに囲まれて仕事ができ、僕にとって人生における最高の財産となりました。

余談ですが、この後にもう一度現場の職人に戻り、現場の修業を経て、株式会社store39を創業し、屋号は土井工務店として都島で会社を創業しました。

今後のブログ執筆活動

今後はブログに柔道ネタも尽きてきたので、元柔道家がどのようなセカンドキャリアを歩んでいるのか?
また、僕の七転八倒している経営を見て、今現役で競技している柔道家やアスリートの方が引退後も本気でやれば何でも上手くいくということを伝えていきたいです。

それでは、この辺で。
時間を大切に良い1日を!